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横浜FMから磐田へ移籍!中村俊輔の経歴を追ってみた

ジュビロ磐田への移籍が決定した中村俊輔選手。年棒ダウンにも関わらず移籍を決定しました。移籍の真相に迫りつつ、これまでの経歴を追ってみました。

 

中村俊輔選手の経歴

横浜市で4兄弟の末っ子として生まれました。中村俊輔は、小学校にあがるころから深園FCでサッカーをはじめます。小学校から徐々にではありますが、頭角を現しはじめます。海外選抜にも選ばれるほど、地元では有名な選手でした。

 中学校に入学するころには、日産のジュニアチームに所属し、全国制覇を達成するほど強豪でした。日産は、横浜マリノス(現横浜FM)の母体であり、当時からユースチーム含め日本サッカーをリードしていました。

しかし、高校入学時に中村俊輔選手はユースにあがることができませんでした。身長が低かったため、ユースでは活躍できないだろうと判断され

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ました。フィジカル面で160cmの中村選手にはかなり厳しい状況でした。レスターのジェイミーバーディー選手も同様の理由で、チームで昇格できず、アマチュアの道で10年近くすごすことになります。身長が理由というのはコントロールできないので難しい部分です。

中村選手は、ユースにあがれなかったため、神奈川の桐光学園に入学します。ちなみに楽天の松井裕樹選手がここの学校の出身です。中村俊輔は入学後、身長が一気に15cm伸び、175cmとプロでも通用する高さになんとかなりました。そして、ずっとサッカーに打ち込み続け、高校2年からは名門の桐光学園不動のレギュラーとなります。

 

俊輔はサッカーに打ち込みすぎて、髪を自分で切っていました。水道のところで髪をきるのはサッカー部からは想像がつきませんが、それほどサッカーに打ち込みたいという思いが強く、サッカー以外の時間は極力減らしたいという思いをもっていました。

高校3年時にはアンダー世代の日本代表、高校選手権では、全国準優勝と輝かしい実績をのこし、ユースであがれなかった、横浜マリノスに入団することになります。

ユースにあがれなかったが、高校で活躍し、Jリーグのチームにあがる選手は多くいますね。本田圭佑選手もその一人です。

 

横浜マリノス時代

中村俊輔選手は横浜マリノス入団後から活躍し、新人王を獲得します。1年目からレギュラーとして活躍し、得点やアシストを毎年継続して量産し続けます。3年目からは背番号も10番となり20歳にして名実ともに横浜マリノスの柱となります。この年、ベストイレブンにも選ばれ、日本でも屈指の10番としての存在感をだしはじめます。翌年の2000年には、最優秀選手に選ばれ、日本代表でもレギュラーになります。驚くことに2000年が、最も日本代表で試合に出場した年で、その後不動のレギュラーが数年続くことがなかなかありませんでした。

日本で開催となったワールドカップで中村俊輔選手は選出どころかレギュラー候補と言われていましたが、なんとフィリップトルシエ監督の選考からもれてしまいます。これに関しては、賛否両論の声があり、足首のケガや、チームの戦術、そして、中村俊輔選手が入信していると言われる創価学会をトルシエ監督が嫌っていたためともいわれています。これに関しては監督以外知る由はありませんが、中田英寿選手や稲本選手らの活躍で日本はベスト16までいくことになりました。

海外挑戦へ

2002年に、イタリアの中堅クラブレッジーナへ移籍しました。移籍後すぐにイタリアのサッカーに適応し、チームの主力選手として活躍しはじめます。フリーキックをまかされるようになり日本時代と変わらぬアシストとゴールを決め始めます。

レッジーナ時代の活躍です。


このころは中村選手が味方の選手よりもテクニックがあったためチームがパスについていけていないということがありました。この時代のイタリアでもトップクラスのテクニックを誇っていました。同時にフリーキックの名手として名をはせます。

セルティックのエースへ

スコットランドプレミアリーグの超強豪セルティックに2005年に移籍をします。セルティックで中村選手は選手として素晴らしいパフォーマンスを出し続けます。セルティックは国内最強のクラブであり、優勝をしつづけていました。ライバルクラブのレンジャーズとの一戦は常に盛り上がっていました。

中村選手は背番号こそ25番でしたが、10番の役割を担い、たぐいまれな活躍で認められるまでになりました。

チャンピオンズリーグでは当時世界最高峰のチームだったマンチェスターユナイテッドを相手に2ゴールをあげます。

マンチェスターユナイテッドの本拠地で決めたゴールは、世界最高峰のゴールキーパーのピーターファンデルサールが何と一歩も動けませんでした。イングランド中に衝撃を与えることになりました。

その後、セルティックの本拠地でも再度、フリーキックが回ってきて、ファンデルサールが必死に飛びますが、届かず再度ゴールを決めました。中村選手にとって最高のフリーキックの1つにあげられています。ファンデルサールはオランダ代表のエースで、ジャンルイジブッフォンや、イケル・カシージャス、オリバーカーンといった名手とならぶレベルです。そのキーパーから2ゴールを奪ったことで、中村俊輔の名がさらに世界にとどきます。このフリーキックは一度みてください。

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2006年、2007年とリーグ連覇を果たします。

さらに2007年は年間最優秀選手に選ばれます。日本人がヨーロッパのリーグでナンバー1の選手の表彰を受けたのは今のところ中村選手しかいません。それだけ攻撃を牽引し、チームの優勝に貢献しました。

2008年にはこちらのゴールを決め、チームの優勝の優勝を近づける一発をあげました。解説の興奮度合がそれを物語っています。


どうでしょうか?このミドルシュートはしびれますね。左足一本で決めてしまいます。セルティックでは現在にいたるまで、外国人選手として認められたのはスウェーデンのエースであるラ―ションと中村俊輔選手の二人だけと言われています。それほど中村選手の活躍は目覚ましいものがありました。チャンピオンズリーグでセルティックが外国のチームと互角以上に渡り合えたのは中村選手の力が大きいと言われていました。セルティックは中村選手が去った後、欧州の舞台では苦戦が続きました。

中村選手は明るい選手ではなかったものの、その誠実なプレーがスコットランドの国民のハードをわしづかみにして多くのファンを獲得しました。最近では中村選手が指導した小学生の少年がずっと俊輔に憧れ続け10代でセルティックのトップチームにあがったという逸話もあります。

外国人でありながら、外国人的な扱いではなくチームのスターとして君臨したのは中村選手以外にはいないでしょう。VVVフェンロ時代の本田選手やフェイエノールトの小野伸二選手が該当しますが、チャンピオンズリーグで決勝に入るチームレベルでいくと俊輔だけでしょう。

2014年にセルティックを訪問した際は熱烈な歓迎を受けました。コメントを聞いているだけで中村選手がどれだけリスペクト、愛されているかわかります。"gifted"と呼ばれるような日本人選手は聞いたことがありません。

 

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キャリアとしても中村選手の最高の時代が続いた一方、代表では苦戦を強いられました。2006年のドイツワールドカップでは、中田英寿選手を中心とする攻撃陣に入ってはいましたが、不発におわることが多くドイツワールドカップでも予選敗退となります。初めてのワールドカップで苦杯をなめました。それでもオーストラリア相手にゴールを決め、ワールドカップにその名前を刻むことになりました。ブラジル戦後に涙をこらえながらインタビューを受けているシーンが印象的でした。ジーコジャパンは黄金の中盤がいながらなかなか勝ちきれませんでした。

 

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その後、2009年にスペインのエスパニョールへ移籍をします。エスパニョールではなかなか活躍をすることができませんでした。13試合のリーグ戦に出場するもスペインサッカーになじむことができず1年とたたずに日本の横浜FMに戻ることになりました。スペインサッカーのスタイルになじめなかったのが原因と言われています。細かいスピード感のあるパスつなぎのところで中村選手がおいてけぼりにされていました。スコットランドでは見られなかった光景です。フィジカルではスコットランドではやっていけないと言われたなかで、テックニックで凌駕していたものの、スペインではそれがいきませんでした。もう少しスペインでやってほしかった気持ちもありましたが残念でした。乾貴士選手がエイバルで活躍するまで日本人はながらくスペインでの活躍がありませんでした。

日本復帰後

日本復帰後は長年、横浜Fマリノスで活躍をします。

2010年南アフリカワールドカップのメンバーに選出され2回目のワールドカップに出場します。しかし、敗れたオランダ戦のみの出場にとどまり、控えとしてチームをサポートします。このころ、本田圭佑選手を中心とするチームに代わり、中村選手は控えにとどまるようになりました。本田選手と中村選手のどちらがフリーキックを蹴るか、少し言い合いになったこともありました。

しかし、本田選手は中村選手のことをリスペクトしており、本田選手本人も中村選手よりフリーキックがうまいと思ったことはないといっています。日本代表からもフリーキックでは一目置かれる存在となっており、2017年の現在になってもこの状況はかわっていません。先日もフリーキックの名手として世界4位、現役選手では1位に選ばれました。メッシ、ロナウド、ネイマールといった選手を抑えての選出でありました。海外の反響も好意的で中村選手を1位に推す声さえありました。

2011年から2016年まで、6期連続主将をつとめます。中村選手の影響力は圧倒的に大きく、中澤佑二選手や斎藤学選手らとともに、常勝軍団の横浜をつくりあげていきました。

横浜Fマリノス退団し、磐田へ移籍

横浜Fマリノスはマンチェスターシティを運営する、シティ・フットボール・グループと提携することになります。シティがマリノスの経営に口出しをするようになり、チームの主導権がこれまでとは違う形になり、中村選手をはじめ選手は不信感を抱くようになります。Jリーグで最高年棒を誇る中村選手は、マリノスにとって必要な人材で引き止めにかかりましたが、納得の得られる説明がなく、年棒を大幅にダウンしてでも移籍を決断することになりました。

松井大輔選手らがいる、J2から復帰したばかりの磐田でプレーすることになりました。磐田は中山雅史選手や名波浩選手らが活躍していた強豪なのでこれから復活をかけてほしいです。その一翼をこれから担うのが中村俊輔選手です。

中村選手にはこれから、日本サッカー界のさらなる発展に貢献してほしいと思っています。37歳になってもフリーキックやテクニックがまったく衰えていませんのでこれからの活躍が非常に楽しみです。